影絵の向こうは実証できない

誰でも影絵を子供のころ見たことがあるでしょう。

この世の中の現実の世界が、なぜこんな感じになっているか。
その理由を考えてしまうのが人間の心です。

で、影絵を持ち出したのですが、

影絵の陰の者たちは陰なんですが、
それなりに考えや心があって
陰なりになんで陰の世界はこうなっているのかな
と考えています(というふうにここでは、しておきます)、
が、陰の世界の住人は影の世界しか判らないので
陰の外の世界がわからない。
陰の世界の住人には、外の世界が判らないようにできている
そういうのが陰の世界です。

実は、紙や木で作られた人形に光を当てて
陰を写しているだけだということには、
陰世界の住人の多くは気が付かない。
たとえ、気が付いてもただの空想にすぎないので、
陰世界では実証できない。

そういう具合に、影絵を例えに使っています。

別の例えでは、
二次元の世界に住む者は、
二次元から出られないので
三次元のことは判らない、
想像で三次元を考えで文字にすることはできても
二次元の世界では三次元を実証できない。

これは数学者が四次元やさらに高次元のことを
考えて文字にすることはできても
三次元の世界でそれを実証できないことに似ている。

コンピューターの中に、プログラムとプロセス、タスクとして
世界と人工生命、人工知能、人工意識を作り
考えさせてもその人工意識は決して、
コンピューターの外にでる事はできない。
せいぜいディスプレイに表示したり、
他のコンピューターにデータを送受信するだけ
だから人工意識が何を考えても、
空想=シミュレーションでしかなく、
人工意識に外の世界の実証はできない。

そろそろ、結論にします。

私たちには、想像や空想で言うしかなく
実証できない物事があるということです。

物事を考えるとき、それが実証できるかどうかを
気にしておくことが大切です。

実証できないことに拘って主張したり
果てには言い争いをすることは愚かなことです。

実証できないことに拘ることは、十悪の邪見です。

英語でチキンといえば臆病者

俺もチキンだ、という話。

なせチキンというか、これにはいろいろ説

- 何か恐怖を感じたとき鳥肌がたつ。
- ニワトリが周囲に気を配りキョロキョロしている
- ニワトリの心臓の動悸が早いこと

があるが、自分は鳥肌説を実感します。

なにかチョットよくないことがあったり
相手からちょっとよくないことを指摘されると
ざわっとしてしまいます。

あるとき、裸の状態で、
相手からちょっとよくないことを指摘されると
ざわっとしてしまいました。

すると観察眼のするどい相手から
鳥肌たってるよといわれ、
見るとまさにそうなっている自分を発見。

ああこの「ざわっと」感じることが
鳥肌の感覚と解りました。

50年も生きてきてやっと自覚するぐらい
自分がチキンだったことを知らなかったなんて。

でもって、小川直也さんが “I’m chicken”
Tシャツを着ているのは
清々しい男らしさを感じるなあ。

新しい物を作る仕事で疲れた人へ

新しい物を作る仕事の人は、
古いものを調べて新しいものを作ることがある。

大半が、古いものを調べている場合もある。
調べるときに、欠点を探すことになる。

新しい物を作る仕事の人は、
欠点探しが得意になるが、
それを他人にしてはいけない。

人の欠点を探してはいけない。
人の長所を探すことが正しい、
と、昔の賢者の説を聞いているからだ。

人は欠点を指摘されても反抗して直さない、
むしろ長所を指摘してやると
欠点もいつのまにか直る場合がたまにある。

人に欠点を指摘されて自分で直せるのは、聖人しかいない。
そしてこの世に聖人は本当に少ない。
そして聖人がいても、その聖人には欠点がほとんどない。

あなたに他人の欠点を直すことは、できない。

他人の欠点を直すのはその他人本人である。
だから、人の欠点を探して言う事は無駄な場合が多い。

陰で人の欠点を別の人に言うな。陰口、悪口だからだ。

物の欠点はあなたがその物を直すのなら
あなたが欠点を集めたり、自分で発見するしかない。

他人があなたの発明品の欠点を指摘する。あなたはそれを事前に知っているが、ありがとうと聞いておけ。そうすれば、賢者になれる。それは知ってるよといったら、愚者である。

仕事に熱中すると、欠点探しと同様の改善の思考癖にとりつかれ、
明日するべきことが頭から離れなくなる。

頭の中がどうどうめぐりを始める。
忘れないようにと、いろいろな項目が頭のなかで、
浮かんでは沈み、浮かんでは沈み、浮かんでは沈み、、、、
繰り返す。
こうなると、なかなか寝付けなくなり、
心・頭脳の疲れが回復しなくなる。

寝付けないので、
寝なくちゃ、寝なくちゃ、寝なくちゃ、、、、
取り返す。
こうなると、ますます寝れなくなる。

項目をメモして、安心して、寝ることだ。
今日の成果に満足することだ。

不満や欠点を探すこと、仕事を終えたと
自分に言い聞かせて、納得するのだ。

満足して体と心を休めよ。特に心を休めよ。

そして、
休められる、休められる、休められる
と念じて、寝ることだ。

と、自分に言い聞かせる。

自分の職業に感謝し賛美しよう

生長の家の創始者、谷口雅春さん の著作 「幸福を招く365章」 に、

自分の職業に感謝し賛美せよ
という主旨が記載されているとのこと
(日本教文社の英文入り日訓メールより)。

確かにその通りと思います。

自分がこの職業につけたことは
自分だけの力ではなく周りの協力があったから。

よい職業につけたならば
なおさら親や知人の協力があったから、親や知人を大切にしないと(正命)。

結局のところ
最後にこれを選んだのは自分自身であり、
まさに自分で選んだ道=職業(正業)なのである。

だからこその感謝(正思惟)であり賛美(正語)である。

賛美すれば、人が喜ぶ(正思惟)、自分が喜ぶ、他人が喜ぶ。
そうすれば商売繁盛の基礎となる。

自分はすぐ仕事中に飽きが来るが
そういうときにこそ、
思い出して集中を取り戻さないといけないね(正念)。

また個人で仕事をしていて
種はまいているがなかなか成果が
ないと焦る気持ちも出てくるが
焦らず落ち着いて心穏やかにしていないといけない(生定)。

なかなか賛美できないのなら、
賛美できるところを探す、
賛美できるように努力(正精進)して良くする。

こういう努力をすれば、
努力をしていること自体が賛美の対象ですね。

奥深い真理があるなあ(正見)。

()の中はお釈迦様の八正道です。


仏教では色々あってどれが本当なのか

仏教について軽く調べれば、沢山の師が色々なことを言っていることが判ります。

どれが本当なのか解らなくなります。

だから、お釈迦様が本当は何を仰られたのか、知りたくなります。

経典の成立の歴史、教団の発展の歴史、字句の解釈など、疑問がつきません。

正見を得ようとして、方便にだまされ、邪見に囚われます。

おそらく結論は、
沢山の師の、「それぞれ説の中に正見と方便と邪見が含まれている」
ということです。

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正しく理解するためのヒントがあります。

1. お釈迦様の生きていた時代は現代より2500年前の科学の未発達の時代であること。

だからいまだ私たちが知らないそんなに凄い真理が見つかるはずがない。
つまり、お釈迦様の説は、いまの私たちにとって極めて常識的なものである。

当時は、動物と植物がおなじ遺伝子DNAの仕組みで増える仲間であるなんで誰も知りません。
だから当時の戒律「生き物を殺すな」もせいぜい動物までです。
現代風に解釈し直し、「人は殺すな、動物と植物はできるだけ殺すな」となります。

また、五蘊、色・受・想・行・識についても、意味不明の解釈が横行していますが、
お釈迦様の当時の科学知識で分析できた肉体と精神の構造と考えれば、
極めて常識的な現代風の解釈
色は、肉体、
受は、感覚器官、
想は、脳の記憶、
行は、感覚の認識に反応した心の次の行動への意志・感情、
識は、感覚を記憶と照らし合わせなにであるか認識すること
であると私は考えます。

2. お経はすべてお釈迦様の死後百年以上後に成立

なにが真実なのか、記録や記憶から探ることは、
お釈迦様が生きていない以上もう不可能です。

理性で現実とうまく対応できる説法を取り出すことが真理へ近づく近道です。

3. お釈迦様は、死後の世界について説明されなかった

初期に成立したたくさんの経典からわかりますが、 お釈迦様は、死後の世界について説明されなかったのです。

お釈迦様は、現実主義だったと思われます。

だから、地獄、極楽、輪廻転生は、方便、現代では完全な嘘です。

なぜ当時に方便が必要となったのか、その理由と背景を考えましょう。

方便の目的は、八正道を守ってもらうための賞罰として
地獄、極楽、輪廻転生を持ち出したのです。

またお釈迦様の時代の社会通念、不滅霊魂の存在を仮定することも、あります。

日本にて布教するとき、日本の社会通念や当時の社会制度や庶民の生活状況も配慮しましょう。

4. 悟りが難しいは嘘

悟りは知識としての悟りと行為としての悟りがあります

知識としての悟りは、教えを理解し正しいと感じることです。
だから、お釈迦様が最初の説法で、
すぐ悟った弟子、コンダンニャ、がいて、
お釈迦様は大変に喜ばれたのです。

最初の説法では、四諦八正道くせらいしか説法されていません。

あー、本当にとっても簡単です。

行為としての悟りは八正道を常に実践することです。

これは、確かに難しいと思いますが、
道から逸れたらすぐ修正すればよいのだと思います。

四無量心は悟った状態(つまり嬉しい状態です)です。
八正道を実践すると嬉しくなります。
つまり四無量心の状態になります。

切れ目無く八正道を行いましょう。

5. 観念論、形而上論に弄ばれるな

大乗仏教の空にこだわりすぎても何も出てきません。
正しいかどうか証明できないものに拘ることは得策ではありません。

諸法無我の解釈もはっきりしないものが横行しています。

私案ですが、諸法無我とは、
「この世の成り立ちを決めているもろもろの法則に、
我つまり個人の欲望が入り込む余地は無い」
という意味です。
簡単に言うと、客観的な法則、例えば、
一足す一は二の法則、生まれた人はみな死ぬという法則は
曲げられないということ。

諸法の意味を正しく取らず、
無我を「どこにも自分が無い」と解釈しては、
現実から眼を背けわき道にはずれて行く気がします。

6. 苦行は必要ない

お釈迦様が体験して悟られたことは「苦行は必要ない」ということ

苦しみながらするような禅の修業や冷水をかぶるような荒行は
ほどほどにしておきないということです。

7. 否定形に飲み込まれるな

八正道はするべき善です。
十悪はしてはいけない悪です。

八正道の解釈で十悪を持ち出すだけの
消極的解釈が横行しています。

もっと善を詳しく語りましょう。

「やらされている」より「やりたい」と感じましょう

「やらされている」と感じ行うより、「やりたい」と感じ行うほうが楽しくできます。

「やらされている」と感じると苦しいので
動きがぎこちなくなります。
ですからミスをします。
ミスをするからさらに辛くなります。

「やりたい」と感じると
楽しいので進んで取り組みます。
動きが滑らかになります。
ですから上手になります。
心に余裕があるので、
先々を見越して行くこともできます。

「しなくちゃいけない」より「できる」と思え

個人の経験ですが、
「しなくちゃいけない」と思い行うより、「できる」と思い行う方が良くできます。

くだらない例ですが、夜行バスに乗り、
寝なくちゃいけないと思い乗ると寝れませんでした。

注意することは、寝るまで
寝なくちゃいけない、寝なくちゃいけない、寝なくちゃいけないと
繰り返し思うことです。

ところが、寝られると思い乗ると寝れました。

注意することは、寝るまで
寝られる、寝られる、寝られると
繰り返し思うことです。

悪口をいわず、欠点を認識させるには

先に小さい結論
「相手の人を良くすることは、まず諦めたほうがいい。
まず第一に自分が良くなることに、
第二に、自分の物が良くなることに、
第三に相手の物が良くなることに、
力を注ぐと良いのである。」

自分の力が及ばないことを、より良くすることは難しい。

自分が良くなるとは、心、考え方と、話、行いを良くすることであり、
八正道を修めることである。

自分の物とは、自分が作ったもの、作るものであり、
身近なものなら料理や家事の仕方、
そして、仕事の成果、発明工夫である。

他人の意見、とくに目下の人の意見を
どこまで素直に感謝して聞き入れられるかが
大切である。

ここに書くぐらいだから、
人の意見を受け入れることが
本当にとてもとても難しいのだ。

相手の物を良くするには、
相手の物の欠点を指摘してはいけない。

欠点を指摘すると反発され、
意見を受け入れてもらえられないからである。

欠点を指摘せずに、欠点を認識させるにはどうすればいいか。
これこそが、正しい方法であり、知りたい方法であるが、
それを直接書いてあることは少ないのである。

まず相手と相手の物を褒めることが大切である。
褒めてあげれば、心に余裕ができて、
いろいろなことに気が回るようになる。

実はその物の欠点については、
相手はすでに気が付いている。

発明開発した当事者なら
欠点も含めて検討して
全体的にまずまず良いから
世の中に出しているので
当然欠点にも気が付いている。

また、相手がたんなる販売員であり、
はっきり欠点に気が付いていなくとも、
売れ行きの評判がさほどでなければ、
多少不安を感じている。
だから、なんとなく不安に思い少し気が付いている。

だから、まず相手と相手の物を褒めることが大切である。
これで、ニコニコしながら話ができる。
その後、でも自分はちょっと困っているという。
相手が話に乗って来たら、
自分が迷ったこと、困ったことを言う、
自分の予想と違ったことを言う、
相手の物を貶してはいけない。
これで悪口を言わずに済むのである。

相手がこちらの困っていることに
乗って来ないなら話を止め、話題を切り替える。
いつまでもこちらの話題に固執してはいけない。
楽しい話に切り替えるのである。

もちろん、買う買わないの場面であれば、買わなくてよい。
もちろん、買いたければ買ってもいい。

慣れの怖さ

物事の手順や方法が多少不便でも
慣れてしまうと気にならないことが多い。

気にならないと、
そのまま忘れてしまうのである。

物事に慣れないほうが不便が解り、
もっと便利にできる。

自分の場合、
- 覚えることが少ないこと
- 心・智慧を動かさなくてすむ
- 体(指一本、目配り一つ)を動かさない
こういうものが便利と感じる。

世の中、便利を見つければ多数あり、不便もまた多数ある
不便を少なくして、便利を増やして生きたい。

だから自分はなんにでも疑問と反発を先に感じる。
こういう性質は酷くなると、苦しいものである。
そのまま真似をしないほうが良いだろう。

で、反対の意見の人もいる。
不便に慣れろといい、不便に合わせろと強制してくる。
本人は不便と思っていないからさらに始末が悪い。

でも、これはこれでひとつの考え方である。
世の中の慣習、決まりごとを変えるには、
大変な時間と費用と反対者の怨みつらみを買う。

「じぶんは世の中を良くすることから無縁のところで
気楽に生きていくのさ、だからあるものはそのまま利用するのだ」
という考えは一見スマートであるが、
それだけだと、すぐ自分自体がつまらなくなる。
自分の生きる目的が何も無いからである。

本当は、やりたい目的があるので、
その他の事に今はかまっていられないから、
その程度のことはほって置くのである。

話が脱線した。

不便がいっぱいある、
便利と思っていることでも
直すことは多数ある。
気がつくかどうかは、
自分次第である。

「初心わすれべかざる」の本来の意味とは違うが
不便さは、初心のときに感じるので、
「初心わすれべかざる」に引っ掛けて
初体験の不便さは覚えておくと後で良いことが多い。

で不便さに気がついたら、第一段階終了。
ここで喜んではしゃいではいけない。
まだ先がある。
次回のもっと良くする方法で、考察したい。

目上の人

物事について、感じることを良しとしない意見もある。
問答無用とか、目上の人に逆らうなとかである。

実際、自分より若い人に意見を言われると、
「痛い」、痛いから仕返しをすることがある。
まったく、目上の人とは困った存在である。

問答無用とか、目上の人に逆らうなとは、
目上の人との付き合い方を示す処世術であり、
長いものにまかれろや出る釘は打たれるも
すべて世渡りの術である。

私が読んでいる仏教の本(仏教読本)には、
煩悩を断ち切るひとつの方法として
危険から遠ざかることを述べている。
危険として
- 荒馬や狂犬
- 行ってはいけないところ
- 交わってはいけない人
を上げている。

だいだいの結論が見えてきたようである。

目上の人は、意見を言うことで
交わってはいけない人である。
意見を聞くことでだけで交わる人である。

ああ、目上の人にいい人がいればと思う。